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アクアリウム廃墟分室の話

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アクアリウム廃墟分室の話



*


思えば必要としているものと必要に迫られて身に着けたものの間には常に大きな隔たりがある。
例えば天体を知ることは我々のような人間には重要なようにも思われるのだが、私も彼女もそれをほとんど知らずに興味も持たずに生きてきた。
常に俯いて歩いているので星辰などは背中を刺すばかりである、というのにも一理あるがそれはまったくなべて言うことでもなく言うなれば真球に近い多面体のほんの一面でしかない。理解とは常に真理の外側にあり真理は心臓の奥の…あるいは脳の果ての…四分割の窓の向こうで決して起こせぬ獅子のように眠っているものだ。
必要に迫られて少しだけかじった、とは彼女の弁であるがそれでもポラリスひとつ指させないのだと鼻で笑った。
今思えばそれは私ではなくどこか遠くにいる何かに向けて放たれた言葉である。私という窓を通じて遠くに投げられたその言葉。
あるいは私の中の眠れる真理に。
白い天井と白いシーツとたくさんの管。
他に彼女は何を言っていただろうか。


*


いつの間にか凍り付いたように固まった指先を見ていた。
膝を折って浸した先の薄い水溜まりは日の当たらない山影の常であるようにどこまでも冷たく骨を湿らす。
辛うじてでも生きているならせめても体温を確保しなければいけないと、上着はうんともすんとも言わない男に貸していた。有り得ない方向に曲がった足先を見ていると言いようのない不安が喉の奥から這い上がって来る。
脈を取るまで死んでいると見えたその男は、脈を取ったら確かに生きていたし心臓の辺りはまだ温かかった。登山者か。にしてはそぐわない服装と荷物が気になった。
転落か土砂崩れか栄養失調か。いずれにしろ不幸なことだと思った。こんなところに踏み入った方が悪いのだ、とはなかなか言えない。そういう人間はいるのだ。世界にどこまでもつまはじかれてしまうしまう類の、生きている幽霊のような種類の。
生きている幽霊とはいえこの男は確かに生きていたので、何か下手をしてこのままここで死なれたら心底困ると思ったのだ。
見知らぬ人間を看取るほどまだ経験を積んでいないし心構えもない。
頭部から出血した跡があった。
たぶん死ぬだろうがそれはあと数時間後にしてくれ、と思いながら男の手を取って擦ってやった。しかしその男の乾いてくたびれた掌よりも自分の指先の方が幾らも冷たかったのだ。恐らく。
瞑目した血の気のない男の顔は作り物のように白く、傍らに投げ出されていた山羊の口金の鞄の旧さと相まってまるで十八世紀にでも飛び立ったようだ。足元が不意に寒くなる。
暗闇を怖いと思ったことはない。だが、山の中で死体に出くわすことは何よりも怖いと思った。それが生きているなら尚更。死に向かって秒刻みで転げ落ちていくなら、言うまでもなく。
救助を依頼していた本隊が来たのはほんの十数分後で、オレンジのジャケットを来た彼らは男を手際よく包んで持って行ってくれたので助かった。
そう思ったのと同時に酷く嘔吐してその場に倒れた、というのは後から聞いた。結局男と同じ病院に搬送されて1日ばかり入院したのだがこれは誰にも話していない。
ただあの時の自分の指より冷たいものに触れることはもうないだろうと思った。
そんなことにも気づかなかった、あの場では確かに自分の肉体すら死んでいたのだ。
男は生きていた。
自分も生きていた。
あの場のあのぞっとする山の中で不本意にも死を分け合ってしまったのと同じ、生までもうっかり分け合ってしまったように。


*


蒸気機関車が牽引していく長い客車の窓を開けて、石炭を燃やした黒い煤が一瞬煙突に辺りに蟠ってしかし途端に吹き散らかされていくのを首をひねって見た。
青い夜だ。星が美しい。
「ずっと一緒に行きましょうね」
客車には彼の他に誰もいない。
誰かに頭を打たれたような気がして彼は。


*


いつも来ている古い外套は恩師から譲られた唯一のものだったが、裏地が大きく裂けて綿がはみ出していた。
着るには問題もないし、どうせ一度着たらしばらく脱がないので放っておいた。
退院するときに久しぶりに袖を通したときに初めて気づいたが、裏地の裂け目がなくなっていた。誰の手によるものかは知らないが、丁寧に繕われた跡があった。
現場の写真を見たときに確かに血まみれになっていた外套はすっかり染み抜きがされていたし、破れもほつれもなくなっていた。
掌を見る。
構わないのだと言われたような気がした。


*


次にその男とまみえたとき、わたしは猫を飼っていた。


*


金髪の男が夢に出ると彼女は言った。
夢に出て手招きをするのだと。


*


海水に赤く錆びた鉄骨がコンクリートを突き破って斜めに飛び出し先端を風化に委ねている。
内からも外からも爆ぜ割れた水槽の残骸たち。白く積み重なる魚の骨。水死体の髪の毛のように枯れて乾いた海藻。
死体と潮の香。
思えば必要としていたものはそんなに多くはない。
手に入れたいと願ったものも多くはない。
なので何も手に入らなかった。
手に入らないということは決して失うことがないということだ。
だから永遠までも留めておかれる。
あの夜のような夜のような夜の奥に投げ落とされたってそれは光だ。
それを抱えていればどこまで行っても孤独にはならない。
私は脳の果てで、私は心臓の奥で、私は蒸気機関車の客車で、私はあの山で。
私は私を眠らせている。
いつかその光に瞼を刺されて目覚められるように。


ポラリスが指させなくったって私は笑ったりしない。


*


プールに浮いているのは
彼女の死体。




















アクアリウム廃墟分室の話。
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