ツバサマツ
本日の出撃を終えて次の作戦を控えた空母の格納庫には、機体の補修作業と補給を待つ緑色の翼が群れている。エンジンの放熱はかれこれ二時間あまりも続いていて、狭く密閉された格納庫の中はうだるように暑い。
その一角に、数人の整備員が固まっている。何か恐ろしいものでも見たような顔。流れる汗をけだるく拭う軍手。その手に握られた作業用具。ガンガンと低く響く不協和音。
のっそりと現れた大柄の男…九七式艦上攻撃機のパイロットの男…が、待てど暮らせど整備を始めようとしない整備員たちを訝しみ、彼らの傍に近づいてオウと声をかけた。
その中には九七式艦上攻撃機のパイロットの実弟がいた。ぼさぼさのくせ毛に猫背のひどい彼の実弟は、兄に声をかけられると軍手で鼻の辺りを擦ってから(顔が黒く汚れる)ある一方を指さした。
指さされた先では、いかにもパイロットらしいひょろりとした細身の男が、出撃したときの格好のまま、翼を休める戦闘機をひどく蹴り付けている。何度も。執拗なほど。
先ほどから格納庫に充満する低い音は、どうやらこの男が立てていたようだ。
九七式艦上攻撃機のパイロットの男は、整備員の弟の肩を何度か元気づけるように叩くと、オイと声を張り上げた。
戦闘機を蹴り付けている男が引きつった顔で振り向く、その細面に拳を叩き付けるのと同時に、後ろにいた整備員たちが散らばって仕事に向かう。とかく海上では時間が全てを決めるのだ。この整備不足のせいで次の出撃時に死人が出たら、その時に責任を取らされるのはパイロットではない。
「何をしていた、ブラザー」
「………」
「言えないのか、チョロ松」
「………」
「一松が整備した機体だぞ。今日もよく飛んでいたじゃないか。何の文句があるんだ」
チョロ松と呼ばれた青年は青ざめた顔でしばらく言葉を選んでいたようだが、意を決したように口を開いた。その頬が腫れ始めている。
「、兄さんが」
「お、そ松、兄さんが」
「今日は直掩機がよくなかったからうまく爆弾が、落とせなかった、って」
「僕は」
「普段はもっと上手く、飛べるのに」
「今まで、そんなこと言われたことなかったから、」
「……こいつのせいだって」
チョロ松、と呼ばれた細身細面の青年の脇では、一松と呼ばれたくせ毛猫背の青年が、既に整備を始めていた。
鉄と油の匂い。エンジンの排熱。幾重にも響き渡り飛び回る整備員たちの声。
蹴り付けられて足形を残した零式艦上戦闘機の緑色の胴体。
チョロ松の顔にもう一発拳を叩き込んでから、九七式艦上攻撃機のパイロットの男はその場を後にした。
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大日本帝國海軍擁する空母艦隊・基地航空部隊…通称第一航空艦隊は、皇紀2601年の海で最も精強で最も酷薄な戦闘部隊であった。
4隻の空母。ふたつの駆逐隊。あとに続くは朗々たる艦隊。爆弾と魚雷にしごき抜かれた複数の航空隊。旭日を背に波濤を越えてゆく「見敵必殺」の益荒男ども。
太陽を模した真っ赤な旗を掲げた艦隊が、世界の海を、空を、次々に切り取り属領と為していく。その所業は大日本帝国海軍に敵対する国々から見れば、一種の英雄行為とも悪魔の成せる業とも取れる戦ぶりであった。
勇ましく風を切って飛び立つ艦載機。陽の光に輝く鋼の翼。その背にまたがる海の燕たち。
悪魔の所業と言われようが、それは誰の胸をも沸き立たせるような、まるで眩しい、絵日記のような光景であった。
大日本帝國海軍第一航空艦隊、空母・明星(メウゼウ)所属する急降下爆撃部隊、その隊長に、松野おそ松という男がいる。
もとは東京の下町辺りに生まれ、佐世保の海兵団から横須賀の海軍航空隊に入隊した男だ。上海に初陣を飾り広東、フィリピン、ポートダーウィンと渡り歩いた空の猛者である。
第一航空艦隊をひな飾りがごとく並べて行った波多坊湾攻撃、その第一日目を終えた後のことだ。
松野おそ松は艦内をのらつきながら酒保で贖ったウイスキーを舐めている(、この男はどうにも酒乱の気があった)。
広い艦内ではあるが、航空隊員の行き交う場所など知れている。弟であるカラ松を見とがめたのもたまさかではあるまい。いつものように平然とした顔の弟を睨むように酔眼を斜めにして、いささか不機嫌なような顔を作って呻いた。「今日の爆撃はよくなかった」
「ブラザー何を言うんだ」松野カラ松…こちらは雷撃部隊の隊長格である。九七式艦上攻撃機のパイロットであり、魚雷を撃てば10のうち7か8は間違いなく目標にぶち当てて見せる男だ…は、芝居がかった仕草で両手を広げてみせながらそう答える。
「今日の爆撃も見事だったぞ。俺の隊からもよく見えた。お前の機体は落とさなかったようだが」
「俺のは250㎏爆弾だぞ。空母もいないのにやれるか」
「アーハン?」
では先ほどチョロ松がおめいていた直掩云々はただの言いがかりだろうか、とカラ松が顎を押さえたところで「それに」とかぶせてくる、おそ松は既に酔眼がどろどろと融け落ちそうな顔をしている。一体この短時間でどれだけ飲んだやら。
「今日の直掩が悪かったからよ」
そう当て擦ってくるのだから、全くこの男は酔っぱらっていても悪い男だ。その上たいへんに嫌な男だ、とカラ松は思う。
「そうだろうか」
おそ松の顔を見たところで本意が覗けるわけでもない。カラ松は当たり障りなくそう言ってやる。
おそ松への譲歩や牽制ではない。愛機を蹴り付けるような醜態を晒すほどその一言に傷ついたとみえるチョロ松と、それに対して何も言わなかった一松の名誉を挽回するつもりで、そう言った。
…食い下がったとも言う。長男は暴君だ。空でも海でも陸の上でも、この男は王様であることに執心する。
おそ松は答えず、着ていたカーキのズボンのポケットから汗でよれた手紙を二通取り出す。
「十四松とトド松からだ」
なので、その話はそれで終わりになった。
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波多坊湾攻撃とほぼ同時に行われた、駆逐艦「五葉」「柏」、特務艦「赤塚」によるイヤ岬砲撃についても成功裏に終わったとの報告が入ったのは、その日の夜半であった。
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十四松の手紙は非常に短かった。
筆圧が濃い上に、紙を長く伸ばした袖で擦るので文字がところどころ呆けたようになって少々読みにくい。便箋でなく製図用の紙の端を破って殴り書きしただけなのが、破天荒な弟らしい。
要約すると、"BK"にカラ松兄さんが乗るのが大変たのしみである、という内容だ。
こんなこと書いていいのかねぇとおそ松が笑う。
「N飛行機は艦爆は作らんのかね」
「あそこは戦闘機ばかりではなかったか」
「相変わらず汚い字だな。それになんだ、この紙」
おそ松の話はすぐあちこちに飛ぶ。
十四松はN飛行機での機体開発に携わっている。BKとはその新型機のことだ。現用の九七式艦上攻撃機の次世代型、十四試艦上攻撃機のことだろう。
トド松からの手紙はこれも簡潔だった。
つぶつぶとした、まるで少女の書いたような文字が、測って並べたように便箋に乗っかっているのに笑ってしまう。我褒めの癖は頂けないが几帳面で心優しい、家族思いの末の弟。
内容は、父も母も息災なので心配しなくていい、というものだった。日持ちする缶詰を幾らか送るので仲良く分けなさい、と書き添えられているのは母の手だろう。
「缶詰?」
おそ松はニヤニヤと笑っている。「いやぁ、旨かった」
「全部食ったのか」
「全部じゃあない」
「仲良く分けろと書いてあるだろう」
全くよぉ~カラ松がこえぇんだもんなぁ~盗み食いもできゃしねぇよ、とお道化た調子で言い、おそ松は手紙を出したのとは逆のポケットから秋刀魚の缶詰を取り出して見せる。
「一つだけか」
「まだある。欲しけりゃ取りに来い」
カラ松の手にそれを乗せると、手元のウイスキーを干しておそ松は歩いて行った。どうにも千鳥足で、ウェッとかオェッとかえずく声がする。
おそ松は大して酒に強いわけでもないのに、あればあるだけ飲みたがる。困った男なのだ。
飯もそうだ。そう腹が減っているわけでもないのにあればあるだけ食ってしまう。なので心配した。母の心遣いがすべてあの男の酒の肴に消えてはいまいか、と。
よれよれの千鳥足が狭い通路を曲がって去っていくのを見届けて、カラ松は格納庫へと足を運ぶ。
しんと静かな…薄い明かりが申し訳程度に下げられているせいで、複雑に重なり合った翼の影が生まれ、完全な暗闇よりもなお闇が深いように思われる…格納庫のいつもの場所には、一松が膝を抱えて座っていた。
「一松、何か食べているのか?」
詰め込まれた戦闘機の陰でもごもごと口を動かしていた一松は、咽るように幾らか咳き込んでから、ニタ、と笑った。
「…おでん」
「おでん?」
「チョロ松の奴が置いていった」
小さくまとまるように座っている一松の横には紙の包みが置いてあり、アルマイトの器に入ったおでんとラムネが見えた。
ヒヒ、と一松は笑う。煤に汚れた一松の顔。「悪くないぜぇ…」
「チョロ松は?」
「帰った。腹が痛いってさ」
「腹?」
「まぁ嘘だな。お前と会いたくなかったんだろ。たぶん」
昼間のことを思い出す。戦闘機を蹴っていたチョロ松の鬼気迫る背中。振り向いた瞬間の、途方に暮れたような目。青ざめた顔。
チョロ松はいつもそうだ。何かあるとすぐに、自分が世界で一番不幸なような顔をする。自分が世界で一番の被害者みたいな顔をして、いつだって世界を責め立てる。
頬を殴り飛ばした感触が、今でも手首の辺りで熱く疼いている。
一松は次のおでんをもそもそと口に運びながら「もういいだろ早く行けよ」とつっけんどんに言った。「用があったのはチョロ松だろ…俺は疲れたからもう話はしたくない」
ラムネを開ける、しゅぽん、という小気味のいい音。
カラ松は踵を返した。
日がな一日中酒保の看板の下でうだうだとしているせいで、まるでそこの顔役のようになっている主計科の矮躯の男は、無論きちんとした名があるはずなのだが、どんな乗組員からも気安くちび太と呼ばれている。
本人もそれを否定しないでちび太と呼ばれてオウと気安く返事をするので、ここの酒保ではものがよく捌けるのだという。
「オゥ雷撃の。お前ぇの弟がさっき寄ってったぜぇ」
「うむ、それを聞いたのでな。ちょっと寄ってみた」
芝居がかった仕草で前髪をかき上げながらそう答えるカラ松に、ちび太は心得たように顔をくしゃっとさせて笑う。「んで、何を買ってってくれんでぃ?」
「あいにくと間に合っている」
なんでぇしわい男だぜぇと言いながらちび太は咳でもするように笑った。
すっかり燈も落としてあるというのに、ほとんど暗闇の酒保に住み着いてでもいるかのように、ちび太はまるで平然と卓の向こうで頬杖をついている。
砲撃が始まっても、恐らくこの男はここにいて平然と頬杖をついているのだろう。もしかしたら沈むときまでも。
「そういや、さっきお前ぇのお兄(あに)ィさんも来たぜぇ」
「また酒を買っていったのか」
「オウ上得意だぜェ。困ったことになぁ」ちび太は奥から出したウイスキーの瓶を振って見せる。「一日に二本なんてなぁ、よく飲りゃあがるぜ」
カラ松は眉をかすかにひそめる。
「おそ松には俺から注意しておこう」
ちび太はあいあい、と調子よく頷いた。
「あの兄さんも弟の言うことなら効くんじゃねぇのかい」
「いや、逆だな。俺たちの言う事なんか効いたためしがないぞ」
オヤそうなのかい、とちび太は意外そうに答える。
「俺ぁあの男はお前ぇらの言う事しか聞かねぇと思ってたよ」
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松野カラ松が航空隊に入ったのは、おそ松がそうしたからだ。
学校を出てからというもの、定職にも就かず(これは他の兄弟にも…彼自身にも言えることだが)家でぐうたらと寝てばかりだった兄は、ある日突然おれは飛行機に乗るぞと言って家を出て行った。
兄の人脈などは非常に少ないし、その上ろくに金もないので、すぐに帰ってくるだろうと家の皆が高を括っていた。
が、次に兄が戻ったのはおおよそ3年後だった。
上海で被弾したときに機体の破片が刺さったという腕の大きな傷を土産に、それ以外はなにも変わっていないような兄の姿。
松野カラ松が航空隊に入ったのは、それからすぐ後のことだ。
そうするべきだと思ったのだった。何故か。
波多坊湾攻撃に向かう最新鋭の空母・明星にて、兄弟たちと顔を合わすまで気づかなかったことだが、カラ松は航空隊になると決めてから一度も家に帰っていなかった。
それは彼の覚悟のほどではない。
そうするべきだと思ったからだ。
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チョロ松の姿を見かけたのは、ちび太としばらく話し込んだ後、そろそろ寝に戻るか、と狭い通路を狭い部屋に向かって遡っている時だった。
こちらを見かけた瞬間、ぎくりと体全体をこわばらせたので、暗い中の遠目でもそれと知れた。よく見ると頬が真っ赤に腫れているので痛々しい。(飛行機乗りは目がいいものだ)
「チョロ松」
「……」
カラ松が近づいても、チョロ松は立ちすくむだけだ。狭い艦内の通路では、すれ違うことさえ一苦労である。向かい合って近づきつつある二人が、それを無視してその場を去るのは難しい。
近づいて行ってようやくそれが目に留まる。チョロ松の手に聳え立つ、細い灯りに鈍く光る金属の塔のようなもの。
チョロ松は手にたくさんの缶詰を持っていた。積み上げられた缶詰は本当にたくさんあって、まるで旧式戦艦の艦橋のようにも見えた。カラ松は驚く。
「おそ松のところに行ったのか?」
しばしの沈黙を挟んで(、カラ松が近づくのを待っていたようにも思える)、チョロ松はぎこちなく頷く。
「さっき酒保で、会ったから」
「そうか」
「……」チョロ松は意を決するように深呼吸をしてごめん、と言った。
「カラ松ごめん。お前の言う通りだ。機体には文句なんかなかった」
そして、悪いのは僕だ、と呻く。
その手の中の缶詰の山は、母の送ってきたものだろう。
「その言葉は…あー、一松に言ってやるべきじゃあないか?」
「言った。あいつヘラヘラしてさ…よくわからなかったけど…もういいって言ってた」
こんな風にしおらしく素直な弟を見たのはいつぶりだろうか。カラ松は少し懐かしい気持ちになる。
まだ6人兄弟…六つ子が揃って、下町の狭い家に住んでいた頃。父と母と8人の家。
神経質な三番目の兄弟。
しかし当のチョロ松は言いながらどんどんうつむいてしまうものだから、手に持った艦橋みたいな缶詰の山が崩れそうで、カラ松は思わず手を差し出す。こんな夜中に通路で騒音を立てたら海軍精神注入棒ものだ。
それに気づいたチョロ松が慌てて缶詰を抱え直す。両手で抱え込むようになんとか持ち直すと、照れくさがるように腫れた頬で少し笑った。
「あと…おそ松兄さんに笑われた」
カラ松はチョロ松の肩をぽんと叩いた。酔眼どろどろだった先ほどのおそ松の姿を思い浮かべる。あんなに飲んだ後だ。笑うことくらいしかできなかったのではないだろうか。
でもおそ松は缶詰をちゃんと持っていた。
そしてチョロ松にちゃんと分けてやった。
カラ松は満足していた。
ポケットから取り出した秋刀魚の缶詰を、チョロ松が抱えた缶詰の山の、一番上に置いてやる。
「おい!」早々に怒声を上げる弟に「餞別だ、マイブラザー」とひらひらと手を振り、カラ松はチョロ松とすれ違い、部屋に戻ることにした。
背後で缶詰が崩れる音がした。
カラ松は全速力でその場を去る。
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霧の濃い朝だった。
艦隊は、霧をかき分け回頭運動をしながらダメ押しの攻撃に入る。
目標は太平洋艦隊。昨日の急襲ではひたすらに混乱し航空基地をめちゃくちゃにされるばかりだった名ばかりの艦隊だが、巡洋艦「信楽」が放った偵察機によれば、本日の太平洋艦隊には戦艦がおよそ8隻に巡洋艦が大小とりまぜ8隻。護衛の駆逐艦は30隻もつらを並べているという。
しかし、昨日の奇襲と大戦果に、こちらの士気は上々である。
大艦隊何するものぞ。こちとら旭日の航空隊だ。
格納庫からエレベーターでいの一番に運び出されるのは、すっかり手入れをされた直掩機たちだ。鉄の棺桶などと揶揄されることもあるコクピットに乗る搭乗員たちの目はどれも爛々と輝き、口元は凛々しく引き締まっている。
コクピットはその名の通り、勇敢な闘鶏の檻がその語源らしい。
しかしあの線の細い…むろん家族の間でしかそれと伝わらないだろうが…三番目の兄弟は全くいつもと同じ顔でコクピットに座るのだ。
いつもと同じ顔というのは、なにを考えているのかわからない、多少すましたような、遠くを見るような顔だ。
今日もその顔をして、チョロ松は直掩機のコクピットに収まっている。頬の腫れは引いていなかった。
何ともやるせないが、残念ながら声をかけている時間はない。カラ松はジャケットの前を閉めながら自身の搭乗機へと向かう。
「発艦ようし」「発艦ようし」「発艦ようし」「発艦ようし」
波のように号令が伝わってくる。信号手が旗を勢いよく振る。手袋に覆われた皮膚に、じわりと薄い汗が浮かぶ。
これが飛行機乗りの醍醐味だ、と、カラ松は半ば信じている。
全身を覆う鳥肌が心地よい。
今から敵をころしにいくのだ。
エンジンの音を響かせて、第一陣が次々と飛び立っていく。風を切ってみるみる小さくなり、艦上にてゆったりと旋回し待機する機体たちは、極上の風に乗った紙飛行機のようにも見える。
次に発艦するのは松野おそ松隊。艦爆の鬼たちが爆弾を抱えて、今まさに飛び立たんとするその時。
上空を旋回していた直掩機の一機が、不意に機体を大きく傾がせた。
パイロットが必死に持ち直そうとしているのか、機体は左右に大きく振れ、高度を下げながらも着水の姿勢に入る。
艦隊の頭上を掠めたその機体は、一度くるりと回って翼で水面を切るように斜めに海に突っ込んだ。
「落ちた」「落ちたぞ」「何番機だ」「攻撃か?」「敵影見えず!」「救助は」「救助だ」「発艦急げ!遅れるな!」
艦上の騒ぎをしり目に艦爆隊は飛び立つ。重たい爆弾を抱えている彼らは、それでも意外なほどの速さで高みまで舞い上がるのだ。
次いで艦攻隊。ぐん、と身体も機体も後ろに強く引かれるのは一瞬だ。風に乗って離艦するときの、脳をしびれさせる歯の浮くような感触。
落ちたのは。
落ちたのはチョロ松の機体だ。
カラ松は自身が異様に冷静であることに気づいていた。
頭の中が不気味なほどにしんと冴え渡っている。
前だけを見る。まっすぐに。艦爆部隊と彼らを護衛する艦戦部隊が、太陽の光を受けて風を切り進んでいく。
コクピットの中というのは、どこか浮世離れした場所だ。
どうしても、艦の中よりも、空気が薄い。死の匂いが濃い。
どこもかしこも冷たい、死神の胎内だ。
闘鶏の檻。
闘鶏は死ぬまで戦う。
それを不幸と、因果なことだと、鶏は思うだろうか?
否思うまい。
それは幸福だ。
おれたちもいずれ、そうなるのだろう。
だからトド松は、家に残ったのだ。
だから十四松は、陸に残ったのだ。
だから一松は、艦に残ったのだ。
だからチョロ松は、海に残ったのだ。
見届けるために。
空も海も青い板のように見える。よくできた舞台の書き割りのように。現実感が軒並み置き去りにされていく。
おれたちはてきをころしにいくのだ。
これこそがパイロットの醍醐味だ!
チョロ松。
まさか死んではいないだろう。我らの弟だ。そんなにやわな男に育っているわけはない。
そんなわけはない。
無線から攻撃開始の一報が飛び込んでくる。それと同時に、艦爆部隊が雪崩れるように急降下の姿勢に入る。
チョロ松。
チョロ松、見ているか。
頬の痛みなど忘れて、この美しい流れ星を見ているか。
先頭はおそ松だ。
おそ松きっとこの戦いで誰より人をころすだろう。
笑え。
笑え笑え笑え笑え笑え笑え。
嗚呼、大笑。
残虐非道の大芝居だ。
カラ松は操縦桿を倒す。ちりちりと指先が燃え上がるように熱を持つ。
死神の胎内の中で、悪魔のような顔をしてカラ松は笑う。
それを不幸だと
飛行機乗りは思わない。
ただ醍醐味だと
震えるだけだ。
カラ松の冴え渡る脳には、確かにおそ松があの美しい流れ星の一番槍となり、必殺の250㎏爆弾を敵空母の飛行甲板のど真ん中に叩きつけて大笑いをする姿が浮かんでいるのだった。
艦爆の鬼。
どんな戦場からも平気な顔で生きて帰る男。
何人ころしても
へらへら笑って酒を飲む男。
それがあの男の幸せか。
否違うだろう。
それは"俺の"幸せだ。
"俺たちの"幸せだ。
チョロ松、見ているか。
お前のお兄(あに)ィさんが
ひとをころすぞ。
カラ松は機体から魚雷を切り離す。
800㎏の死神が、大空から舞い降りる。
嗚呼、幸福也。
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波多坊湾攻撃の二日目(後世にてダヨー湾海戦と称される)にて、大日本帝國海軍第一航空艦隊は、一隻の巡洋艦と三隻の駆逐艦を喪った。
戦果は空母一隻、戦艦一隻、駆逐艦五隻。
大日本帝國海軍の大勝であった。
(そして、これが最後の「大勝」となる)
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でもおそ松が家族と兄弟に宛てた長い長い遺書を残しているのを、カラ松以外の兄弟はみんな知っているのだ。
翼待つ